シアワセのカタチ

知らないということはある意味では幸せだ。
最近、しばしばそう感じる。


少し前、Twitterで@_mk2さんがこんなポストをしていた。










_mk2 まああれだ。瞳のハイライトなくなっちゃった女の子が好きなのは、たぶん自分がそうなったら幸福だろうなあとか思ってるから。半径2メートルくらいしか視野に入らなくてごはんおいしーねー、今日もあったかいねーくらいしか考えられないいきものになってみたいから。 link


このポストを見て、すごく共感してしまった。
この状況は、なんて甘美で、なんて幸せなんだろう。
そう思ってしまった自分が怖くなった。
これは怖い想像だ。ものすごく、怖い。
けれども、光に抗えない虫たちのように、惹きつけられる。


なにも知らなければ、なにもかも忘れてしまえば、それはすごくシアワセなことだ。
自分の周り半径2メートルくらいで構成されている世界は、カンペキだ。
外の世界を知らないし、知ろうとも思わない。半径2メートルよりも先は存在しない。
その世界の中で、なにも知らない自分は、シアワセであることもわからないのかもしれない。
たとえわからないとしても、シアワセという感情さえわからないとしても、シアワセなんだろう。


けれども、半径2メートルより先を、自分の目に映る世界の向こう側に何かが存在していることを知ってしまっている僕は、この状態に憧れはしても、この状態になることはできない。
なんらかの方法でこのカンペキでシアワセな世界を実現できるとしても、僕はその世界に飛び込んでいくことはできないだろうと思う。
僕は知っているから。そのカンペキな世界の外にも世界が広がっていて、そこでは、傷つき、傷つけ、絶望することがあっても、それでも幸せなこともあることを。


虫たちは、光の先にある絶望を知っても、光に向かい続けることができるのだろうか。