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感情は言語の枠に規定されるんじゃないか、というお話

なんかついったーにポストしちゃうだけで満足しちゃうから、ブログにあげるような長い文章を書く気にならないのが正直なところ。
もともと長い文章を書くのってあまり得意じゃないし、140文字のポストを繰り返すだけならまぁ論理的に破綻していてもあまりわからないし気が楽なんだけど、たまには長い文章も書かないとちょっとマズいかなーなんて思ったりもするので、昨日の早朝、寝ようと布団に入った後に思いついたことをぽつぽつとケータイでうっていたことを少し書いてみようと思う。
支離滅裂な文章になりそうだし、これはねーわって思うかもしれないけど、思いついたことを書いて公表するだけでも、書かないことよりはなんらかのプラスの意味が生まれると思うのでつらつらと書き連ねる。書き足りない部分があったり文体がだめだめだったりするだろうけど、とりあえず気にしない。


まず最初に思ったのは、想いを直接文字に落とし込めないのが難しいなということ。例えば論理的な思考は言語ありきで、言語を頭の中でこねくりまわしてやっていることであると思うから、それをそのまま文字で表現できると思う。でも、ある一瞬に感じた、生まれた想いというのは、ぼんやりとした形の文字では表現できないなにかであって、言語ありきのものではないから、そのまま文字で表現することはできない。そのなにかを言語という枠に当てはめないと文字にならないのだけれど、言語には限界があるから、その想いの一部は確実にこぼれ落ちるだろうし、ノイズが入る。これは、言語の限界であるけれど、語りえないものについては沈黙しなきゃいけないなんてことは絶対になくて、何とか言葉で語ろうとすることが、自分の想いに対する真摯な態度だと思う。


この言語の枠ってやつは、持ってる語彙とか表現の仕方とかそういったものによって大きさも形も異なっている。ある光景を目にしたときに浮かんでくる感情は人それぞれ違うだろうし、その感情を文字に落とし込むための枠も人それぞれ違うに決まっている。浮かんだ感情のすべてをありのまま伝えるのは不可能であると思うけど、枠を広げることである程度は掬いきれるはず。枠を広げるには、語彙を増やしたり、表現の仕方を学んだり、いろいろな方法があると思うし、語彙や表現を取得するやり方も多岐にわたっている。


僕の小学生の作文は「楽しかったです」「嬉しかったです」で終わることが多かったけれど、きっとそのときに感じていたことを言葉にするときに枠があまりにも貧弱だったからこういう言葉になってしまったんじゃないか、と思うと少し悲しくなる。10歳のときに感じたことを今の僕は同じ光景を見ても感じることはできないだろうし、もっと言えば、昨日の僕が感じたことを、1時間前の僕が感じたことを、1分前の僕が感じたことを、今この部分を入力している僕が感じたことを、今の僕が感じることができないかもしれない。あのときの感情を今の僕なら、あの頃よりも大きな枠を使ってもっとうまく言葉にできたんじゃないかという後悔すらしてしまう。こういう後悔は、どんなに枠を広げても、いくつになってもあると思うし、この後悔が表現の原動力になったりすんじゃないかと思う。


日本語以外の他の言語を会得することは、新しい枠を、または今の枠をもっと大きく広げる可能性になるんじゃないか。英単語一つとっても、日本の単語と完全なイコールで結ぶことはできないし、新たな感情、新たな表現の可能性になるんじゃないだろうかと感じる。日本人と外国人の感性が違うように、言語によってその感性は違うのだから。新しい言語を学ぶことは、単にコミュニケーションの手段となるだけでなく、豊富な感情・豊富な感情表現を取得することにもなるんじゃないだろうか。


要は、感情は生ものでふわふわしてるけど、感情表現は言語の枠に規定されるよね。で、その言語の枠を広げることが大事なんだよ、みたいなことを言いたかったんだと思う。