まとまりのない話 気を使いすぎるのは生きにくくない?

下手に長くて、こういうのをもっとまとまりよくキチッと書きたい。
結論のでていない、だせない話を記憶から記録にするように書き綴るのは好きなんだけど、それを人が読めるレベルにまで昇華していきたい。と何度も言いつつ、結局はこのままずるずる、なんだろうけど。


自分は「先輩」と呼ばれることが苦手だ。
苦手とか苦手じゃないとかそれ以前に、「先輩」だなんて呼ばれたことがないような気がする。
先輩後輩関係が初めてやってくる中学のときは二年の終わりまで部活に所属していたけれど、一年生と仲良くなって話をしたりしなかったし、生徒会とか委員会でも役員やったりしていたわけじゃないから後輩との関わりはなかった。先輩との関わりも全然なかった。高校では帰宅部で、何もしていないような生徒だったので、中学のとき以上に後輩と関わることはなく、当然先輩と関わることもなく、ずーっと先輩後輩関係というものを経験したことがなかった。
大学に入って、結局何のサークルにも入らなくて、同じ高校から同じ大学に入った友だちとつるんでばかりいて、去年半年ちょっとバイトをしていたときに、敬語を使って話さなければならない社員さんや先輩との関係を持ったけれど、「〜先輩」なんて呼んだりするわけではないし、自分が働いていたキッチンでは、ある程度の年齢の方ばかりだったので、いわゆる先輩後輩関係とは違うものだったと思う。自分よりあとに大学生とか専門学生が入ってきたけれど、キッチンの方に入ってきたのは女の子で、女の子と話をするなんて自意識過剰過ぎて苦手なのでほとんど話なんてしなかった。
今年の春に大学3年に上がって、ゼミというものに所属して初めて、中学や高校のそれとはだいぶ毛色が違う気もするが、先輩後輩関係といものを経験して、そのことについてというわけでもないんだけれど、ゼミの同期の友人と少し話をして自分が思ったことを少し書き記しておこうと思って、今これを書いています。
なんかこういうのばかりだなーと自分でも思うけど、なにかに触発されないと自分の中に浮かんでこないものってのは貴重なものだと思うし、自分とは違う人に意見に触れたことで何か新しいものがあるかもしれないから、こうやって文字にしてみようと思っています。


上の長々としたものではつまるところ、今まで先輩後輩という関係を持ったことのない自分が、今年初めて先輩後輩という関係を身近に持った、ということです。
仙台には、というより東北地方には、と書いた方が正確だろうし各方面から怒られないだろうから一応こう書くけれど、東北には芋煮会と言って、川原なんかにみんなで集まって、里芋を中心に肉やら野菜やらを、例えば仙台なら味噌で、山形なら醤油で味付けした汁を鍋で作って食べるという秋の風物詩的なイベントがあります。
この前のゼミの時間は、自分にとっては初めての芋煮会をやりまして、芋煮をやるにはいろいろな道具が必要なんだけれども、薪と鍋とおたまと具材は大学生協に頼むと用意してもらえるので、こちらで用意するのは少ないのですが、当日に水と飲み物と着火材と洗剤とタワシを買わないとならなくなって、三年生はみんな原付を持っていないので、持っている四年生の先輩が「俺らで買ってくるよ」と三年生に言ったところから話は始まります。


前置きが長くて、読んでくださる方には申し訳ないんですが、出来事や事実関係を整理して、必要十分な長さで必要十分な語彙を使って話をするのはどうも苦手で、これは結構大事なスキルだと思うんですけど。


先輩が「俺らで買ってくるよ」と言ってくださったので、時間もあまり残っていなかったですし、こちらとしては願ったり叶ったりで、せっかくそう言って下さっているのだから是非ご好意に甘えさせてもらいましょう(へりくだってみています)と、自分は心の中で思ったのですが、「いえいえ、先輩方にそんなことしてもらうわけにはいきませんので、僕ら三年生で買いに行きます(だいぶ脚色あり)」と同期(同い年のゼミの人をなんと表現していいのかわからない)が申し上げた(謙譲語)ので、三年生が買いに行くことになりました。(注が多いな……)
コンビニへ行って、言われたものをカゴに放り込んでいったのですが、洗剤だけ置いてない!ということで、同期が先輩に電話をしまして、洗剤だけなかったのでお願いしてもよろしいでしょうかということを申し上げてもらったのですが、その電話のしゃべり方がひどくへりくだったもので、ちょっとびっくりして不思議に思いました。


さてさて芋煮も終わって、その後の飲み会も終わって、お酒に酔っ払ったその同期と二人で帰宅の途についたわけですが、そこでちょっとさっき不思議に思ったことをそれとなく酔った勢いで話をしました。
それ以外にもいろいろと、失敗したなーというところまで話をしてしまったのは、ちょっと反省。アルコールによってテンションが変わったりする体質じゃないと自分では思っているんですけど、話す内容の閾値がちょっと下がったりするんですかね。ネットではこうやって話しているような内容なんですけど、ついつい口から本音がポロリとこぼれてしまって、家に帰り着いたときに、「うわぁ、あれは話すべきじゃなかったなー」と思いました。
その失敗はどうでもいいんですが、いやどうでもよくないし今後の戒めにしようと思ってますが、その話でわかったのが、その同期は気を使いすぎるタイプの人で、自分は気をあまり使わないタイプの人だ、という今考えると至極当然な結論です。


気をあまり使わないタイプからすれば、あの同期のように気を使いすぎるタイプ、例えば上で書いたように先輩のお手を煩わせるわけにはいかないとか上下関係を異様に、とまでは言わないけれど、結構気にしたり、沈黙に耐えられないというか、とにかくいろんな話題で話かけたりして、場を、というよりも相手を楽しませようとするのが当たり前な人って、なんか大変だなーとしか思えなくて、もちろん気を使うこと自体はそれはそれですごく大事なことなんだけど、なんというか、自分の精神を削っているというか、自分を犠牲にしているようで、ちょっとキツ目に言うと、「生きにくそうだなー」なんて思っちゃうわけです。
ちらっと耳にしたことによると、その同期は小学生のときにちょっといじめられていたことがあるとかなんとかで、他人の顔色とか他人が思っていることが人一倍気にかかって、あの人に嫌われているんじゃないかとか、心配事を少しでも減らそうとしないと駄目なようで、こういう話を聞くとこちらとしても強くは言えないんだけど、それでもやっぱり生きにくそうだなーって思っちゃう。
自分は、正直なことを言えば、先輩となんてあと半年程度の関係だし、なんか半年間毎週のようにゼミの時間に顔を合わせているだけじゃ仲良くなれそうにもないし、先輩っていうだけでなんとなく距離を感じちゃうから、まあなるようになるんじゃね?みたいな風に思っている節があって、他人の目が気になって精神的な面で顔に汗をかいちゃうような自分が言えたことじゃないんだけど、適当に気を抜いて能天気にいてもいいんじゃない?と、最近ではいろんな物事に対してそう考えていて、こんなようなことを勢いで話してみたんだけど、人から言われただけで自分の性格を変えられるくらいなら誰も苦労はしないですよね。というか、どっちが良いというわけでもないんですが。


あぁ、話の落としどころが思いつかない。
気を使いすぎるのは大変だなぁということと、気を使わなくても案外ちゃんと生きていけるよ、相手はそんなに気にしてないよ、とかそういうことを言いたかったのかな。
人間関係ってのは相手の顔色を窺ったりしだすと、それだけでもうストレスになっちゃうものだと思うし、でも顔色を窺わなきゃならない場面は必ずあって、それは大事なんだけど、そればっかりだとどっかで爆発しちゃうよ、と。
自分はその人のことは友だちだと思ってるし、別に顔色を窺わなくたって、ちょっとくらい変なことしたって、酔ってふらふらになっているところに肩を貸して歩くのをサポートしたって、こうやって愚痴をこぼされたって、それは全然マイナスの要素なんかじゃなくて、むしろ嬉しいくらいなんだよ、ってことを伝えたいだけです。
って、こんなような結論を、この前の同期みんなで行った飲み会のあとに書いたのでも書いた気がするな。
自分みたいな能天気が、人の役に立てるなら幸せってもんですよ。(2回目の結論)
どんどん自分を使って欲しいし、嫌なら嫌って言うだろうし、自分はこうやってネットでガス抜きできるし、よくわかんないけどそんな感じです。


これをその同期が読んでいるわけじゃないんだけど、なんとなく自分の中ではまとまったので、いつか話をしてみたいと思いました。
毎度のようにまとまらないものでした。じゃんじゃん。