ケータイの電波が届かない場所は

今日、大学からの自転車での帰り道に携帯電話を落としました。すぐに落としたことが発覚して、ちょっと戻ったところに落ちているのを発見したので事無きを得ましたが、携帯電話を落としたことに気づいた時はちょっとどころかかなりあたふたしてました。
「このまま見つからなかったらとりあえずドコモに電話なりショップに直接行くなりして使用停止を申込まなきゃいけないのかなー」とか「親に連絡するのどうしよう。この前友だちのケータイから電話したらオレオレ詐欺だと一瞬間違えられたんだよなー」とか、そんなことを考えていました。よく考えたらこれあんまり慌ててないですね。でも、アドレス帳白紙かーとか思ったりしてちょっと震えてたのは事実です。


こんなことがあったので、携帯電話もネットも、ましてや一人暮らしで固定電話も引いていなかった時代、もうちょっと具体的に言うと、僕の父親母親が学生だった30年くらい前はどうだったのかなー、なんてことをちょっと考えてみました。
そこまで遡らなくても、例えば僕が小学生の時に、○○駅前に何時集合なー!と約束をして、その駅までの道がわからなくなっちゃって迷子になっちゃったときに「ごめん迷子になってちょっと遅れる」とかそういったことを待ち合わせ相手に伝えられなかったことがあって、そのときは公衆電話から自宅に電話をして親に道順を教えてもらって、少し遅刻したくらいでなんとかなったのですが、昔はよくそんな方法で待ち合わせなんかしてたよなーと思うわけです。今じゃもう考えられない。


父親母親の時代には、実家にいる親に連絡をとるだけでも大変だったんだなーと思います。父親は親になんか全然連絡を取らなかったようだし、母親は寮の談話室に置いてある公衆電話に10円玉を握りしめて順番待ちをしていたらしいです。


その電話の相手が彼氏だとしたら、すごくわくわくどきどきするんだろうなーと思うのです。10円玉を握りしめてまだかまだかと今受話器を持って話をしている人を列から顔を出して覗いてみたり、一人一回5分の制限のなかでどんなことを話そうかと頭の中で空想している順番待ちの時間は幸せな時間なんだと感じます。
待ち合わせ場所の駅前に1時間待っても相手がこないので、「いつもの喫茶店にて待つ」と駅の伝言板に書いて、コーヒーを飲みながら相手が来るのを待っている時間、待ち合わせ時間にすごく遅れちゃって全速力っで走って来た相手が伝言板の伝言を読んだ瞬間、そういうのは、携帯電話がこんなにも普及した現在ではもう感じることの難しい時間で、なんだか素敵なことのように思えます。素敵ですよね。


どういう結論に持っていけばいいのかわからないのだけど、ほしのこえで言う「ケータイの電波が届く範囲が私の世界」という感覚にうなずける世代としては、だからといって携帯電話を手放すなんてことはできないし、でも、こういう感覚を味わってみたいなーと思います。駅の伝言板なんてもう見かけないよ……。


一人暮らししている今、携帯電話とインターネットを取り上げられたらあまりの寂しさに死んでしまいそうです。