毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ

最近は、毎日日記をつけています。日記と呼べるような代物ではない気はしますが日記のつもりです。
毎晩、その日一日を振り返る時間を持つと何かが変わるのかと思っていたりしますが、今のところその傾向はないようでちょっぴり残念です。
朝起きて、家を出る準備をして、大学に行って、講義を受けて、帰ってきて、お風呂に入って、寝る。いつもの、代わり映えのしないサイクルを繰り返しているだけでも、たぶんどこかそのへんに無造作に物語は転がっていて、それに気づくこともなく、気づいたとしても振り向いたときにはもうその姿が見えなくなっているような、そういうものだと思っていますが、だからと言ってその物語を見つけるには、僕はこのいつもの日常に慣れすぎてしまっています。
だからたまには意識して、いつもの日常から離れて、普段なら足を伸ばさないどこかに行ってみたり、そうすると、その新しい場所にある物語を発見できるんじゃないかと、そんな期待をしています。


今日は、代わり映えのしない一日を過ごしました。
いつもの火曜日と同じように、お昼前に起きて、ご飯を食べて、大学に行ってゼミをやって、学食で夕飯を食べて、公務員講座に出て、帰ってきてテレビを見て、ネットをして、お風呂に入って、ボーッと過ごしていて、たぶんこれを書いたあと、明日の小テストのためにちょっと勉強をして、それから寝るでしょう。
やったことをただ列記するだけなら、10月の第三火曜日も11月の第二火曜日も、今日とほぼ同じ一日を過ごしていたはずです。でも、同じ一日なんてあるわけがない。10月の第三火曜日にはまだ手袋していなかったしする必要もなかった。11月の第二火曜日はまだ髪を切っていなかったから頭がちょっと寒かった。今日は、雨が少し降っていて、メガネについた雨粒が視界を少しぼやけさせていました。
でも、僕は、今日も代わり映えのしない一日だったなぁと思っています。


同じ一日なんてあるはずがないって知っているのに。なんだか自分がすごく不思議です。


大人になるってこういうことなのかなーなんて発想を飛躍させてみたりします。
積み重ねた日々があまりにも多くて、21歳の僕は 365×21+αの日々を積み重ねてきました。
その8000日くらいある日のうちで、一体何日分の出来事を記憶しているのでしょうか。
いつもと同じだと思っている日はたぶん重ね合わせで記憶していて、記憶していることすら意識してなくて。
子どもの頃は、いつもと同じと思うほど、たくさんの時間を過ごしていなかったから、毎日が新鮮で毎日が発見で未知で溢れている世界は輝いていたのでしょう。
そんなことすら僕は僕自身の体験として記憶にありません。
今でも未知は世界に溢れているはずなのに、世界は曇ってきています。
大人になるってこういうことなんだったら、大人になんてなりたくなかったって、大人の僕は思っていて、それは大人の僕だから思えることなんだと感じます。


なんだかとても寂しい一日でした。